刻まれるもの
「時間を管理する」ということについて考える。
人間は空間座標上を、少なくともxy軸に関してはある程度自由に移動できる。z軸に関しても、他の陸棲哺乳類に比べれば自由なほうだろう。ところが、t軸(時間)に関しては全く移動の自由を持っていない。人は過去にはさかのぼれないし、一足先に未来に行くこともできない。時間は、そもそも管理などできる対象ではないのだ。
ところが人はしきりに時間を「管理」したがり、それができることを誇りたがる。できもしないのにだ。なら、実際のところ何を管理したがっているのだろうか。
こういうことを考えるのは、時間管理を実際に行うときに常に感じる疑問からだ。時間は(少なくとも巨視的には)連続量だから、いくつかの単位に分割して、それを利用してできる時間が一定だと仮定して整理する。その分割は基本的に等幅で、15分,30分,1時間,半日,1日…という具合だ。そもそもいまだに時間だけが60進法なのも、約数が多く分割が容易だからだと言われる。
だが、実際に15分、30分、..でちょうど終わる行動などはない。むしろ、そういう目盛りで動いているうちに、人間のほうがその時間にあわせて行動するようになる。
なんのことはない、これは人間のほうが時間に管理されているだけのことである。しかもその「時間」は実際には時間ではなく、「空間図形のイメージに基づく等幅」である。朝の1時間、昼の1時間、夜の1時間、頭痛の時の1時間、食事の1時間、恋人と過ごす1時間、寝ているときの1時間…といった主観要素はすべて排除されている。
だが、行動はむしろこういう主観的な、もっといえば感情的な要素により多く左右される。
それに比例するのは行動によってもたらされた成果であり、充実や疲労という形の蓄積であるはずだ。それを、15,30…という機械的なものさしでぶった切ってしまう。まさに、時を「刻んで」いる。そんなことをすれば血がでるのは当たり前だ。
もともと時間は同期のためのツールだ。自然と人間との。前も書いたが、1年は自然の周期である。それがそのまま人間同士の同期にも流用されるところまではまだいい。だが、自分と自分を同期するのにまで時間を使うというのはどう考えても愚かしい。主観的な時間は自分の状態とともに伸び縮みするものだからだ。何もしない状態こそが、自分と自分が同期できている状態であるはずだ。
「時刻」名のもとに自分自身のなかに2つの軸を作り出し、自らを分割してしまう。そんなことが「時間の管理」であるとするなら、私はそこに何の魅力も感じない。必要なことであるとしても、それは「必要悪」にすぎない。必要悪を身につけることを誇る感性は持ちたくない。
作曲家の友人がいた。人気で実力を測るとすれば、二流にもなれない、そんなやつ。
でも俺は好きだったなあ。彼のブログは数年前で更新が止まっている。
事の発端は、彼がある曲を書いた後。これの数フレーズが、中南米で活動するバンドの曲と酷似していた。
素人は音楽のなんたるかを理解してない。
世界のどこかの作曲家がいいと思って書いたものを
他の作曲家もいいとおもってつくってしまうなんて当たり前の話なんだ。
意図的に文化交流の少ない国の作曲家の曲をパクってる連中もいるから
偶然の産物も故意の犯罪にみえたんだろうとは思う。見分けがつかないからな。
彼のブログで自称音楽の専門家が言った。
「音符の組み合わせは無限大にある。ここまで似るのはパクリ以外ありえない」
いいや、違う。いいフレーズは有限で、しかもオリジナルの余地は僅少。
似ている曲が世界中のどこにあってもおかしくない時代。
音楽学校にいきゃ、このくらいはまっさきに教わる。
それだけ人間が音楽を愛してきた歴史が長いんだ。
「証拠はあがってんだよ。氏ね」
知らないことは時に罪となる。
ある日彼と出会うとこういった。
「頭の中で楽器の音を再現すると割れるように痛くなる」
そのしばらく後に出会った時にはがりがりにやせていた。
「一曲書くたびに似た曲がありはしないかと怯えて発表が出来ない」
そして次に会った時、彼は物言わぬ躯となっていた。自殺だった。
これは間接的な殺人だ。けれど、報道はこの遺言のために自粛された。
「どうか、死に追いやった人達を責めないで。
彼らは音楽に対して恋をしている。初恋の拙さを思い出して欲しい。
夢を見すぎていて、現実が見えていない。
私も彼らと同じ傾向があった。彼らの指摘から気付かされました。
完全オリジナル、完全オリジナル、完全オリジナル。
夢を追い求めて悩み、そして死ぬだけです。
何を書いてもどこかの曲に似ている。もう耐えられません」
怪談のIT化
(二年前にmixiに書いたものの転載)
世の中IT化が進んでいるが、同時に怪談もIT化している。
携帯電話に送られてくる恐怖のメールとか、見てはいけない呪われたHPとか、何も表示されないグーグルマップの空間とか。
しかし私はこれらを聞くといつも首をかしげてしまう。たとえばホームページを呪うってどういうことだろうと思う。サーバにとりついてるのか、ブラウザにとりついてるのか。呪い情報が 0と1に変換されて伝送されてくるというのも、怖いというよりどうしても笑いが先に立ってしまう。
怪談というのは社会の漠然とした不安や恐怖を表現したものだと思うが、いくらなんでもIT怪談は私は怖くない。もともと怪談は全く怖いと思わないが、それに輪をかけて怖くない。
そして今、スマートフォン・タブレットPCなど、またIT界は革命が起きている。同時に怪談も進化しなければならない。妖怪や幽霊たちも今、iPhoneやiPadなどの新しいデバイスにどう対応していくのか協議しているに違いない。
・・と書いてて気づいた。おそらくIT幽霊の正体は、使われなくなったデバイスの霊に違いない。日本はアミニズムの国、デバイスが幽霊になっておかしくはないだろう。でも、そう考えるとますます怖くないどころか愛らしくすら思えてくる。
「一周年」の意味
なにかを一年後に何かを思い出す、「一周年」というものの意味を考える。
一年とは、簡単に言い切ってしまえば季節のくりかえしだ。自然は季節とともに執拗に同じパターンをくりかえす。だから人間は原始農耕時代から「年」を大切にしてきたし、「年」をくりかえすことは時間そのものがくりかえされることだという感覚を持っていたのだろう。
だが、季節に連動しないものもある。人間の死だ。
植物と違い、人は春に生まれて冬に死ぬわけではない。鮭や渡り鳥のような周期的な生活環も持たない。発情期もない。人間は、自然のすべてが何かをくりかえす様をまざまざと見つつも、自身の姿だけはくりかえしとして観察することができない。人間は、そういう、自然のくりかえしから追い出された孤独な存在だ。
だから、集まって「時間」を無理矢理作り出し、それを定期的に同期・共有しようとする。現代において、さほど同期の必要などない場面でもそれは行われている。とくに日本という国はそのこだわりが強い。それは強迫的とすらいえる。
だが、死後の人間は繰り返しのなかに回帰することができる。死そのものはいつ来るかわからないが、死後は一年に一度法要が営まれ、彼岸という季節が死んだ人を定期的に思い出させる。こうして死者は季節に組み込まれていく。
それは、自然の循環から追い出された人間という存在が、繰り返しの中に戻りたいという回帰願望の現れなのかもしれない。
震災という(短期的には)非周期的な現象をも一年というくりかえしのなかに取り込もうとするのは、震災そのものについて考えることだけでなく「共同体内での時間の共有」への願望も大きいようにも思える。